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「甲斐新府城」

一幅の城絵図がある。それは、江戸時代に作成された古絵図で、鮮やかに施された彩色が今も色あせることなく残っている。古図は台地の南方に周囲を山に囲まれた一つの城を描いている。 その城絵図は『浅野文庫諸国古城之図』という城絵図集に収められているも...
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彦根山は佐和山以上の霊山

さらに、観音寺は古くから石田家と深いかかわりがあったことが分っている。文明年間(一四六九~一四八七)の観音寺文書にはすでに三成の先祖と見られる「石田式部」の名が見られ、石田家は観音寺の有力な檀那であると考えられている。つまり、石田家はかなり...
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佐和山と修験信仰

佐和山が修験者の聖地ともいうべき山であったとしたら、佐和山に城を築くということは、そこが単に要害の地であるというだけでなく、その山のもつ霊力というか宗教的な力で守られるという要素もあったろう。それだけでなく、修験者、山伏は関所の通行の自由を...
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佐和山は聖なる山であった?

石田三成の佐和山城はそれら多くの寺院・仏閣と共存していた。もちろん、それは石田三成自身が京都大徳寺に三玄院を建立したり、佐和山城内に瑞嶽寺を建てるなど信仰の厚い人物であったことも関係してはいようが、それだけの理由であったのだろうか。平安・鎌...
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寺院・仏閣と共存していた佐和山

近年、井伊家所蔵の文書から、三枚の佐和山城絵図が発見された。いったい、なぜ、井伊家は自らが破壊した佐和山城跡の詳細な絵図を所蔵していたのか、その理由は判然とはしないが、その中の一枚の絵図を見て感じることは、佐和山城があった佐和山にはかつて神...
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彦根山は信仰の山

彦根山は当時有名な霊場として知られており、山上山下には、門甲寺、彦根寺、石上寺などの有名な寺院が軒を並べて建っていた。これらの寺院、特に彦根寺は遠く平安時代から京にまで知られた霊所で、京都から公家貴族が参拝にくるほどの有名な霊場であった。こ...
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佐和山城部材の解体使用

井伊氏にとって、佐和山城の建物をそのままの形で彦根城に移築して使用することは石田色の一掃にはならず、そのため、原形を留めなくするため、わざわざそれらを解体して部材としてどこかに使用したということなのであろう。これをもってしても、井伊氏は佐和...
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佐和山からの移築はあったか?

佐和山城は彦根城に一番近く、さらには彦根城が完成するまでは井伊氏は佐和山城にいたわけであるから、当然、そこにあった櫓や門などの旧材は彦根城に使われた可能性が一番高いはずである。事実、本丸の太鼓櫓門は、佐和山城の谷間にあったものが移築されたと...
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彦根城石垣の石の調達

『彦根市史』によれば、彦根城は周辺の敏満寺、布施寺などの古寺跡からも石を調達したとあり、また、「其の外、石仏塔堂柱木ともに皆御城石垣のうら詰になされた」(『淡海古説』)とあることから、石の調達は古城だけに及ばず、古城はもちろんのこと、周辺の...
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彦根城石垣の石はどこから

彦根城の石垣の石はそのほとんどが佐和山城からのものなのであろうか。そう、考えれば、佐和山城に石垣の石がまったくといっていいほど見当たらなかったのも一応は納得はできる。歴史研究家の海津栄太郎氏は、彦根城で最初に完成したと伝わる「鐘の丸」の石垣...