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武田軍の一大駐屯基地作手村

斎藤さんは、我々を部屋に案内すると、待っていたように、さっそく、彩色鮮やかな城の古図を見せてくれた。 斎藤さんは、作手村にあるいくつかの城が「浅野文庫諸国古城之図」に収められていることを知り、その実物を見るために広島まで出かけていき、撮影...
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『浅野文庫』に描かれた作手村城塞群

『浅野文庫』には以下の古図が掲載されており、しかも、どれも、その城跡が今もしっかりと残っております。 一つの村、しかも狭い範囲にこれだけの武田系城郭があるというのは、まさにここが三河侵略の武田方拠点であったことがうかがえます。 全国的に...
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山中にあった武田軍の一大駐屯基地(作手村城塞群)

もう30年近く前になろうか、私は城郭研究家の中田正光先生と武田信玄、勝頼の遠江(愛知県東部)の城を追って、愛知県の山深き設楽郡作手村(現在は新城市作手)までやってきていた。 作手村は周囲を低い山々に囲まれた田園風景あふれる自然豊かな...
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新府城崩壊

勝頼は、新府の城を出て行くに際して、城に火をかけた。 自らが丹精込めて築き上げた城に火を放つ彼の心情はいかばかりであったろう。 勝頼はこの後、重臣の郡内(山梨県)大月の小山田氏を頼っていくが、そこでも小山田氏に裏切られ、終には田野の山中...
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守る兵のいない新府城

新府城は要害である七里ヶ岩の台地上に築かれた武田館でもあった。 しかし、勝頼が夢見ていた新たな都は実現しなかった。 城、その外郭は大量の兵がいればこそ機能する軍事施設であった。 城が一応の完成を見たころ、織田信長は武田討伐を進めるにあ...
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躑躅ヶ崎館と酷似していた新府城本丸

勝頼が、もし外郭を築いていなかったとすれば、勝頼は無駄に長い期間をかけて使えない無駄な城を築いた愚将ということになる。 私が先に甲州流軍学者たちのこだわりといったのはまさにこのことである。 彼らは、外郭をあくまでも勝頼の築城と解釈したが...
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新府城外郭の意味

勝頼が新府城に外郭を築いたか築かないか,それによってその後の彼に対する解釈が大きく変わってくる。 もし、勝頼が外郭を築いていたとしたら、勝頼はまさにここに甲府に変わる高い防衛機能をもった本格的な城下町を建設しようとしていたことになる。 ...
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新府城外郭を築いたのは誰か?

私はこの巨大な外郭を自らの足で歩いてみて、そこから城にかけた勝頼の強い思いが伝わってくる気がした。 しかし、現在、この外郭を徳川家康が築いたという議論が研究者の間でなされている。 というのは、家康の家臣松平家忠が記した『家忠日記』等に家...
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今も残る新府城の外郭

新府城は当時の記録によると天正九年二月に普請を開始し、その一応の完成をみたのは十月であり、工事期間は実質八ヶ月という突貫工事で進められたという。だが、城が未完成というわりには、昼夜を問わずの突貫工事で八ヶ月も要している。 これはいったい何...
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軍学者の解釈

城絵図というのは、単にそこに残っている遺構をただ機械的に筆記すればすむというわけではない。 そこでは、どう城の構造を読み取るか、築城者の意図をどう解釈するかという謎解きにも等しい作業が要求される。 その意味で完成した城絵図は、彼ら軍学者...
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