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作手を兵站基地とした武田氏

『当代記』の同年四月の項には、「長篠在番中、作手へも人数をやり普請」とあり、八月の項には「作手城には信州衆を在番させ」「作手城に後詰めのため、土屋右衛門をはじめ三千余り、相移る」との記述がある。 ここから、信玄の三河侵攻にあたって、作手の地...
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作手奥平氏の苦悩

元亀元年(一五七〇)七月、信玄の重臣秋山信友は三河に侵攻し、作手奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏、いわゆる山家三方衆を降伏させた。ただ、その中にあって作手奥平氏は武田氏に最後まで抵抗したという。これには、武田に人質を送りそれに従おうとする当主奥平...
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作手奥平氏

この作手の地はもともとは三河奥平氏の本拠地であり、奥平氏は初めは作手の川尻城を本拠としていたが、後に亀山城を築いてそこに移り、居城としていた。 また、そこにあった他の城ももとは奥平氏に関係したものであったのだろう。 しかし、そのどれもが武田...
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武田軍の一大駐屯基地作手村

斎藤さんは、我々を部屋に案内すると、待っていたように、さっそく、彩色鮮やかな城の古図を見せてくれた。斎藤さんは、作手村にあるいくつかの城が「浅野文庫諸国古城之図」に収められていることを知り、その実物を見るために広島まで出かけていき、撮影許可...
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『浅野文庫』に描かれた作手村城塞群

『浅野文庫』には以下の古図が掲載されており、しかも、どれも、その城跡が今もしっかりと残っております。一つの村、しかも狭い範囲にこれだけの武田系城郭があるというのは、まさにここが三河侵略の武田方拠点であったことがうかがえます。全国的に見ても、...
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山中にあった武田軍の一大駐屯基地(作手村城塞群)

もう30年近く前になろうか、私は城郭研究家の中田正光先生と武田信玄、勝頼の遠江(愛知県東部)の城を追って、愛知県の山深き設楽郡作手村(現在は新城市作手)までやってきていた。 作手村は周囲を低い山々に囲まれた田園風景あふれる自然豊かな村で、恐...
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新府城崩壊

勝頼は、新府の城を出て行くに際して、城に火をかけた。自らが丹精込めて築き上げた城に火を放つ彼の心情はいかばかりであったろう。勝頼はこの後、重臣の郡内(山梨県)大月の小山田氏を頼っていくが、そこでも小山田氏に裏切られ、終には田野の山中にまで織...
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守る兵のいない新府城

新府城は要害である七里ヶ岩の台地上に築かれた武田館でもあった。しかし、勝頼が夢見ていた新たな都は実現しなかった。城、その外郭は大量の兵がいればこそ機能する軍事施設であった。城が一応の完成を見たころ、織田信長は武田討伐を進めるにあたって、武田...
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躑躅ヶ崎館と酷似していた新府城本丸

勝頼が、もし外郭を築いていなかったとすれば、勝頼は無駄に長い期間をかけて使えない無駄な城を築いた愚将ということになる。私が先に甲州流軍学者たちのこだわりといったのはまさにこのことである。彼らは、外郭をあくまでも勝頼の築城と解釈したがゆえに絵...
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新府城外郭の意味

勝頼が新府城に外郭を築いたか築かないか,それによってその後の彼に対する解釈が大きく変わってくる。もし、勝頼が外郭を築いていたとしたら、勝頼はまさにここに甲府に変わる高い防衛機能をもった本格的な城下町を建設しようとしていたことになる。甲府は背...