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10・30講演会より 豊臣包囲網の城②

また、家康は山陽道を扼する要の城として姫路城を築かせ、美濃には信長以来の山城であった岐阜城を廃して加納城を築かせた。 以下は加納城の図である。 ここでも城は虎口に巧みに角馬出を配して守りを強化している。 岐阜城は山城であり...
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10・30講演会より 豊臣包囲網の城

関ケ原合戦に勝利し、征夷大将軍に就任した家康は大坂の豊臣包囲網さらには西国大名を意識しての城作りを行った。 その代表的な城が東海道を扼す名古屋城(下図)である。 この城は虎口に三つの角馬出を設け、戦う城としての機能を有したもので...
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10・30講演会より 秀吉の城 大坂城

以下は大坂冬の陣の時の大坂城とされている図である。 図はやや模式図的になっているが、秀吉が晩年大坂城に新たに築いた城を囲む惣構えと二の丸に設けた複数の馬出曲輪が描かれている。 秀吉は晩年、大坂城にこの馬出曲輪と惣構えを構築...
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10・30講演会より 秀吉の城 聚楽第

秀吉は生涯に多くの城を築いているが、ここでは代表的な二つの城を見てみよう。 以下は、今は地上から完全に消滅した京都聚楽第の図である。 この城は秀吉が関白になるに及んで、京都に関白公邸として築いたものである。 秀吉は、関白で...
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10.30講演会から 武田家滅亡④

高天神の籠城衆は最後まで勝頼の援軍を待っていたが、3月、ついに城を出て徳川軍と戦いことごとく壮絶な討ち死にを遂げ、城は落城した。 ここに家康は高天神城を奪還することに成功し、家康は遠江から武田勢力を駆逐し、遠江を手にした。 この高天神城...
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10.30講演会から 武田家滅亡③

危機感を覚えた勝頼は北条領に近い駿河沼津に三枚橋城を築き、北条に対抗したが、北条氏も同じく駿河の清水に泉頭城を築いてこれに備えた。 勝頼は常陸の有力大名佐竹氏を介して信長と和議の交渉をしたが、信長はこれに応じることはなかった。 天正8年...
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10.30講演会から 武田家滅亡②

当時、武田氏は北条氏と同盟を結んでおり、北条氏としては、武田氏は景虎を支援するであろうと考えていた。 もし、武田が北条方につけば、景勝の勝利はなくなる。景勝もそれだけは阻止しなければならなかった。 武田の不運はこの両者の思惑の深い争いに...
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10.30講演会から 武田家滅亡 

しかし、家康は長篠の合戦から三年後の天正6年(1578)3月大井川を越えて武田方の田中城の外曲輪を破り、8月小山城を攻めるなど攻勢に転じ、武田にゆさぶりをかけた。これに対し、勝頼も横須賀城まで迫り、家康を牽制した。 この後も、武田と家康の...
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10.30講演会から  

長篠合戦の勝利に勢いづいた家康は、武田方となっていた二股城、犬居城、諏訪原城などを奪還し、信長も美濃岩村城を武田から奪還するのに成功した。 しかし、駿河では武田方の城は相変わらず健在で、遠江高天神城もいまだ武田の手にあった。 一方で勝頼...
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10.30講演会から  武田軍の一大拠点三河作手

信玄の跡を受けた勝頼は翌天正2年(1574)が明けると再び遠江・三河に進軍し、途中、織田方の美濃明智城を落とし、6月には遠江高天神城を攻めたが、家康や信長の支援が間に合わず、城は開城し、武田方のものとなった。 高天神城は武田の遠江での一大...
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