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南宮山布陣の意味

戦略上から見ると、この山に布陣することは意味がないことはない。ここ南宮大社の裏山に毛利が布陣したのは慶長五年(一六〇〇)九月七日のことである。このころ、近くの大垣城には宇喜多秀家、小西行長、石田三成、島津義弘という西軍本隊がおり、東軍はそれ...
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関ケ原の見えない南宮山

三成が抱いた不審は実際に山に登ってみると心から納得できる。「こんな不便できつい山を陣地に選んだ毛利の本音はいったいどこにあったのだろう。」このとき、私にはその意図がさっぱり理解できなかった。さらに、苦労して登った頂上でもう一つ驚いたことがあ...
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石田三成の不審

この南宮山をきついと思っているのは現代に生きる私だけではなかった。実は、石田三成も豊臣家の奉行として当時大坂城にいた増田長盛に宛てた手紙の中で「毛利の陣所は垂井の上にある高山で、人馬の水もなく、人の上り下りもできないほどの山で味方も不審がっ...
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美濃垂井 きつい登りの南宮山

岐阜県垂井は、関ケ原への入り口で、ここを押さえることは戦術上大変重要である。そこに、中山道を見下ろすようにそびえているのが南宮山である。南宮山と呼ばれる山は南宮大社の裏山になり、山下から見ると稜線はなだらかで険しそうな山には見えない。さらに...
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松平忠明により改修された作手亀山城

奥平氏の居城亀山城は、古宮城の南東約二・五キロのところにある。関ヶ原合戦後の慶長七年(一六〇二)長篠城主奥平信昌(貞能の子)の子、松平忠明が再びここに入り改修したことから、城は一部近世化しているが、基本的な縄張りは武田氏時代のものを踏襲して...
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作手村城塞群亀山城縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

以下の縄張り図は作手村に残る奥平氏の居城亀山城です。かつては、奥平氏の居城であったものが武田氏によって手を加えられ、武田氏の城となっていましたが、長篠の戦い後、徳川方となって、再び作手に戻ってきた奥平氏は亀山城を再び改修したようです。それで...
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作手村城塞群 賽の神城

古宮城から街道を挟んだ西の比高一〇〇メートルほどの山上に築かれているのが賽神城である。古宮城は作手における武田軍の本陣という位置付けをもっており、この城を眼下に見下ろす賽神城からは古宮城が丸見えになってしまうという弱点をかかえている。そこで...
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古宮城のリス

私が古宮城の大きな内桝形虎口の前で、何気なく上を見上げると、古い巨木の上部から一匹のリスが大きな目をこらしてじっとこちらを見ていた。恐らく、当時は滅多に人など来ないところであったのだろう。そこに突然、二人も人がやってきて大きな声で話し始めた...
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作手村城塞群主要縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

上から「古宮城」「賽の神城」「文珠山城」の縄張図です。これだけの優れた縄張りを持った城が、作手村という狭い地域に集中して築かれています。全国的にみても、このような場所は珍しいのではないでしょうか。
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武田流築城術を色濃く伝える作手村城塞群

作手村の中で最も色濃く武田氏の築城を伝えているのは何といっても古宮城である。古宮城は奥平氏の居城亀山城の北、国道三〇一号線沿いにあるこんもりとした比高二十五メートルほどの小山に築かれた城で、南北二〇〇メートル、東西二五〇メートルの堂々たる規...