ブログ

ブログ

石田三成の不審

この南宮山をきついと思っているのは現代に生きる私だけではなかった。実は、石田三成も豊臣家の奉行として当時大坂城にいた増田長盛に宛てた手紙の中で「毛利の陣所は垂井の上にある高山で、人馬の水もなく、人の上り下りもできないほどの山で味方も不審がっ...
ブログ

美濃垂井 きつい登りの南宮山

岐阜県垂井は、関ケ原への入り口で、ここを押さえることは戦術上大変重要である。そこに、中山道を見下ろすようにそびえているのが南宮山である。南宮山と呼ばれる山は南宮大社の裏山になり、山下から見ると稜線はなだらかで険しそうな山には見えない。さらに...
ブログ

松平忠明により改修された作手亀山城

奥平氏の居城亀山城は、古宮城の南東約二・五キロのところにある。関ヶ原合戦後の慶長七年(一六〇二)長篠城主奥平信昌(貞能の子)の子、松平忠明が再びここに入り改修したことから、城は一部近世化しているが、基本的な縄張りは武田氏時代のものを踏襲して...
ブログ

作手村城塞群亀山城縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

以下の縄張り図は作手村に残る奥平氏の居城亀山城です。かつては、奥平氏の居城であったものが武田氏によって手を加えられ、武田氏の城となっていましたが、長篠の戦い後、徳川方となって、再び作手に戻ってきた奥平氏は亀山城を再び改修したようです。それで...
ブログ

作手村城塞群 賽の神城

古宮城から街道を挟んだ西の比高一〇〇メートルほどの山上に築かれているのが賽神城である。古宮城は作手における武田軍の本陣という位置付けをもっており、この城を眼下に見下ろす賽神城からは古宮城が丸見えになってしまうという弱点をかかえている。そこで...
ブログ

古宮城のリス

私が古宮城の大きな内桝形虎口の前で、何気なく上を見上げると、古い巨木の上部から一匹のリスが大きな目をこらしてじっとこちらを見ていた。恐らく、当時は滅多に人など来ないところであったのだろう。そこに突然、二人も人がやってきて大きな声で話し始めた...
ブログ

作手村城塞群主要縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

上から「古宮城」「賽の神城」「文珠山城」の縄張図です。これだけの優れた縄張りを持った城が、作手村という狭い地域に集中して築かれています。全国的にみても、このような場所は珍しいのではないでしょうか。
ブログ

武田流築城術を色濃く伝える作手村城塞群

作手村の中で最も色濃く武田氏の築城を伝えているのは何といっても古宮城である。古宮城は奥平氏の居城亀山城の北、国道三〇一号線沿いにあるこんもりとした比高二十五メートルほどの小山に築かれた城で、南北二〇〇メートル、東西二五〇メートルの堂々たる規...
ブログ

徳川一門並となった奥平氏

『当代記』の天正元年八月の項によれば、奥平貞能は脱出するにあたって、早朝、密かに家中の者を集め、家康はそこに援軍を送り、無事に作手を脱出したようである。この奥平貞能はその後家康から長篠城を任され、天正三年(一五七五)、勝頼の猛攻に耐え、城を...
ブログ

武田を捨て、徳川に付いた作手亀山城主奥平氏

天正三年(一五七四)四月、勝頼率いる武田軍は再び三河へ侵攻し、三河野田城(新城市)を攻め、二連木城を開城させ、徳川家康の三河支配の拠点であった吉田城(豊橋市)まで兵を進めた。これに対して、家康は自ら出陣をしてきたが、武田軍を突破できず、吉田...