ブログ 最後まで去就に迷った南宮山毛利軍 安国寺には、もし、大坂方に有利な展開になれば、不戦を決め込む吉川の部隊を蹴散らして、本戦に参加する、その選択肢も残されていたはずである。南宮山の毛利勢の判断も最後まで揺れ動いていた。現場では例え密約といえども、情勢次第では何の役も立たないこ... 2020.02.24 ブログ
ブログ 南宮山毛利軍不戦の理由 光成氏は毛利輝元と吉川広家が疎遠な関係にあることから、密約については、輝元が広家に指示した可能性は低く、一方で、出陣した毛利勢に対する輝元の指示は恵瓊と福原広俊を通じて伝えられていたとしている。(『毛利輝元』)そうであるなら、表面上は密約な... 2020.02.23 ブログ
ブログ 毛利輝元の命を受けていた安国寺恵瓊 光成準治氏は、その著『吉川広家』において、恵瓊が毛利勢を率い、南宮山山頂から下る最前列に布陣していることから、毛利勢の先陣は吉川ではなく、安国寺であり、そこから、毛利勢の不戦には安国寺恵瓊の黙示的了承があったとしている。南宮山布陣後、安国寺... 2020.02.22 ブログ
ブログ 吉川単独の密約 吉川広家の書状には「安国寺陣足がかりよく候」とあり、ここから、安国寺恵瓊の隊が南宮山からの最前列に配されていたことが推察される。また、それは、現地での伝承と一致する。安国寺恵瓊が率いている兵は自らの兵ではなく、毛利家の兵であったとされており... 2020.02.21 ブログ
ブログ 吉川広家布陣への疑問 吉川へは、黒田長政と福島正則からもその内容を保証する起請文が提出されている。二重に保証された起請文は吉川に大きな安心感を与えたに違いない。しかし、これは合戦前日の十四日に突然出てきた話ではなく、吉川が井伊直政や黒田長政と事前に何度も連絡を取... 2020.02.20 ブログ
ブログ 山頂に押し込められた大将毛利秀元 現地に行ってみると、もう一つ、不審な点が浮かび上がる。それは南宮山山頂の入口には、虎口を構えた土塁や櫓を建てたと思われる櫓台、堀切など陣城を築いた跡が残っており、山頂に本陣が構えられたことは疑いがない。しかし、山頂付近には大軍が布陣できるよ... 2020.02.19 ブログ
ブログ 聖域であった南宮山 毛利氏が布陣した南宮山は南宮大社の裏山にあるご神体ともいうべき山で宗教上聖なる場所であった。南宮大社は美濃一宮として『延喜式』にも載っている古い神社であるが、かつて「仲山金山彦神社」と名乗っていたように、古代の鉄と関係が深い。実際に南宮大社... 2020.02.18 ブログ
ブログ 本多忠勝の不審 拙著『敗者から見た関ヶ原合戦』を参照していただきたいが、関ヶ原に今も残る遺構から判断すると、西軍は関ヶ原に先に布陣して家康ら東軍を迎え撃つ計画であったと思われる。当然、そのことは毛利軍にも伝えられていたことであろう。つまり、主戦場が関ヶ原に... 2020.02.17 ブログ
ブログ 南宮山布陣の意味 戦略上から見ると、この山に布陣することは意味がないことはない。ここ南宮大社の裏山に毛利が布陣したのは慶長五年(一六〇〇)九月七日のことである。このころ、近くの大垣城には宇喜多秀家、小西行長、石田三成、島津義弘という西軍本隊がおり、東軍はそれ... 2020.02.16 ブログ
ブログ 関ケ原の見えない南宮山 三成が抱いた不審は実際に山に登ってみると心から納得できる。「こんな不便できつい山を陣地に選んだ毛利の本音はいったいどこにあったのだろう。」このとき、私にはその意図がさっぱり理解できなかった。さらに、苦労して登った頂上でもう一つ驚いたことがあ... 2020.02.15 ブログ