yoshinama

ブログ

ポスト秀吉①

慶長3年(1598)秀吉の死直後の状況 秀吉は天下統一にあたって、戦国大名たちから多くの領地を奪い、中には伊達政宗のように本拠地までも移された大名もいた。 彼らにとって、秀吉の死はそれら旧領を奪還する大きなチャンスであった。 ここに、...
ブログ

宣教師から見た秀吉㉔

秀吉は世界の植民地化を目指す世界最強国家スペイン(このころはスペイン国王はポルトガルの王も兼ねていた)と対抗し、東アジアを日本の版図に組み込んでいく野望を持っていた。 それは世界最強国家スペインに対する東洋の秀吉の反抗と挑戦でもあったろう...
ブログ

宣教師から見た秀吉㉓

慶長元年(1596)四国土佐にスペイン船が漂着したが、秀吉はその積み荷を没収した。 それに対して、フィリピン総督が抗議し、それに対して秀吉は慶長二年(1597)にフィリピン総督に書簡を出した。 その書簡の中で秀吉は「その国においては布教...
ブログ

宣教師の見た秀吉㉒

秀吉はフィリピンへの使者派遣と前後して台湾にも書簡を送り、日本への服属を求めていた。 この書簡には「大明国が数十万の援兵を出して朝鮮を助けたが、今や勅使を遣わして降伏を乞うてきた、南蛮、琉球も使者を派遣してきた、もし貴国も来朝しなければ、...
ブログ

宣教師の見た秀吉㉑

秀吉はそれに対し、「予の軍は高麗を破壊し、手中に収めた。その地の商船の往来を妨げる者なきがゆえに、毎年来たりて貿易を行うべし。もし、予が命に背反する者あれば、良将をその地に派遣してこれを罰すべし」というものであり、事実、このとき日本軍は朝鮮...
ブログ

宣教師の見た秀吉⑳

この親書の内容ではとても届けることは出来ないと判断したヴァリニャーノは秀吉側近の前田玄以やキリシタンの黒田官兵衛に頼んで内容を変更してもらったが、それでも秀吉は「近く大明国に出兵し、これを征服する。そうなれば、貴国とはさらに近づくので交誼を...
ブログ

宣教師の見た秀吉⑲

これらにより、秀吉のイエズス会に対する不信感は強まっていった。 巡察使ヴァリニャーノはこれらのコエリョの軽率な言動、行動により秀吉は「伴天連追放令」を出すことになったと後に分析している。 「奴ら伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、...
ブログ

宣教師の見た秀吉⑱

日本で急速に政治力と軍事力を蓄え、九州長崎を支配するようになっていたイエズス会に対して秀吉はさらなる警戒を強めた。 コエリョはこのとき、明国出兵の際には二隻のポルトガル船だけではなく、ポルトガル領インド副王に要請して援軍を送らせるとも述べ...
ブログ

宣教師の見た秀吉⑰

もとより、秀吉の「日本でも半分か大部分をキリシタンにさせよう」などという発言は本心ではないと思われるが、秀吉は航海士付きのポルトガルの大型軍船を明・朝鮮に攻め込むために提供させる意思を持っていたことは明らかであろう。 さらに、秀吉は明国出...
ブログ

宣教師の見た秀吉⑯

だが、秀吉の伴天連追放令は後の徳川幕府のような徹底したものではなかったようである。 九州に集められた宣教師は国外退去の命を受けて謹慎はしたが、実際に国外に退去したものは一人もいなかった。 それどころか、ヴァリニャーノに伴われて日本に帰っ...
タイトルとURLをコピーしました