2020-08

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上田城の金箔瓦15

だが、秀吉政権のもとでは、当時の武将は誰でも伏見城や大坂城にならって自分の城を豪華絢爛に改修することができたのであろうか。そしてそこに金箔瓦を自由に使用することができたのであろうか。 それも伏見城とまったく同じ八枚または九枚の二重の花弁の...
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上田城の金箔瓦14

慶長五年(一六〇〇)、関ケ原合戦において、美濃に向かっていた徳川秀忠軍は再び上田城を攻めるが、『寛永諸家系図伝』によれば、徳川軍はそのとき「大手の門」に押し寄せ、真田の兵は「矢倉のうへより弓をもって」防戦していたが、それを「塀の下につき槍を...
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上田城の金箔瓦13

特に、沼田城では、本丸の天守閣推定地の周辺から近年の発掘調査で真田時代の天守に使われていたと思われる金箔瓦や軒丸瓦などが出土しており、その中には上田城出土のものとそっくりな菊花文軒丸瓦もあることが確認されている。 これはまさに真田氏が上田...
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上田城の金箔瓦12

瓦は本丸西の堀の中でも、特に北端部と南端部の内側から数多く出土しているが、そこで発見された瓦は金箔瓦である。 そのことから、真田氏も後の仙石氏と同じ場所に櫓を建てていたことは間違いない。 ただし、真田氏の櫓はその屋根に金箔の瓦を使用した...
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上田城の金箔瓦11

平成三年の発掘では本丸水堀の底の南西の隅と北西部より軒丸瓦が多数発見されている。 軒丸瓦は軒先に葺かれる丸い瓦で、上田城のものは菊花文様をしている。 これは八枚または九枚の二重の花弁の菊の花をあしらったもので、秀吉時代の大坂城、聚落第や...
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