関東からの主要街道三本が集約する要衝の地白河

しかし、そこに一つ不可解な事件が発生している。
それは「関山合戦」と称される那須衆が上杉領に入って上杉方と一戦を交えたとされる事件である。
関山合戦の舞台となったのは福島県白河市。
そこは栃木県と福島県の県境の町であり、かつては関東と奥州の境という文化的、軍事的にも重要な場所であった。
そこには古代から有名な白河の関があるが、それを見下ろす関山という標高六一九メートルの山がある。
関山の頂には満願寺という天平二年(七三〇)聖武天皇の勅使により行基が創立したと伝わる古い寺院がある。
それはこの地が古くからの交通の要衝であったことを示している。
この地には今も関東下野から奥州に抜ける古い街道が三本通っている。
一本目は那須芦野を通り奥州に抜ける陸羽街道で下野・会津の境目白坂に奥州側と関東側の二つの「境の明神」がある。
これらの神社は当然関所の役目を担っていたことであろう。
二本目は那須芦野の手前伊王野から北東に会津に向かう街道で、途中「追分」を経て奥州旗宿に至る。
この境目には有名な白河の関があることから、ここが古代からの主要街道であったことは間違いない。
ただし、現在の街道は江戸時代に開かれた可能性があり、かつての街道は白河の関の東側を通っていたと推定される。
そして三本目は那須塩原から七曲を経て奥州下黒川に至る街道であり、そこは黒川という川が境目となっている。
この状況は慶長五年の上杉氏時代も基本的には変わらなかったものと思われる。

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