那須衆を人質に取った家康

徳川氏は上杉領との境目を守る地元那須衆を改修した城に取り込めて、その管理下に置いた。
そこでは、彼らから人質まで取った。
那須一族の当主はもちろんのこと、当主の一族、重臣さらには、嫡子、母、妻、娘らまでもが人質として江戸城に送られた。
例えば、伊王野資信、福原安芸は妻を、大田原晴清、芦野民部は母を人質にされている。
しかも、彼らが解放されるのは関ヶ原合戦よりも一年も後、すなわち上杉が徳川に完全に屈服した後であり、ここから、家康がいかに彼らを警戒していたかが分かる。
ただ、家康としては、国境の防備は自軍により万全を期すが、決してこちらからは上杉領に攻めて行くことはしないという方針を固く取っていた。
家康は上杉領の北にあって上杉氏をけん制する役目を担っていた伊達・最上氏に上杉領に攻め込むことを禁止し、上杉を刺激しないよう言い渡しているが、この方針はここ那須でも取られていたものと思われる。
那須衆への強力な監視体制はその意味もあったのであろう。

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