外郭が構築された大田原城

城は陸羽街道の南側の本城部分だけではなく、その北側にある大久保山まで大きく城地を広げている。
そこは最北の堀、通称「江戸堀」まで延々と八百メートル近くも平地が続くが、そこは外郭ともいうべきところで、大部隊の駐屯が可能となっている。
まさに、大田原城は、対上杉前線の城として、大工事が短期間で行われ、大城郭へと成長したのである。
那須地方の記録『継志集』によれば、大田原本城の南にある大久保山という本城からの峰続きの山に歩卒千人が遣わされ、先に入っていた榊原康政と蒲生秀行らの家臣たちが人数を連れて、「江戸堀」という山を横断する大堀切を作ったとある。
この大久保山を横断していた大堀切「江戸堀」の遺構は途中で一部分断されてはいるものの、現在もその跡を留めている。
この城には下野皆川城主の皆川広照、家康の家臣で伊賀者を率いる服部半蔵正就の子正成が徳川方として、また、那須衆の那須資景(当主資晴の弟)、福原資保(当主資考の弟)、伊王野資友(当主資信の弟)、大田原増晴(当主晴清の弟)千本木資勝(千本木氏の分家)らが地元衆として入り、守備を固めた。
しかし、本丸や主要曲輪は徳川軍が占めていたと思われ、彼ら那須衆の入城は戦力上からいっても大きなものではなく、実態は事実上の人質であったと思われる。
徳川氏は彼らを警戒し、城の中に封じ込めたのである。

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