武田を捨て、徳川に付いた作手亀山城主奥平氏

天正三年(一五七四)四月、勝頼率いる武田軍は再び三河へ侵攻し、三河野田城(新城市)を攻め、二連木城を開城させ、徳川家康の三河支配の拠点であった吉田城(豊橋市)まで兵を進めた。
これに対して、家康は自ら出陣をしてきたが、武田軍を突破できず、吉田城まで退却を余儀なくされた。
まさに、この時点では、家康は武田氏に喉元まで刃を突き付けられた形になった。
しかし、翌年天正三年(一五七五)、勝頼は家康から三河長篠城を奪還するため一万五千の兵を率いて出陣し、設楽ヶ原で織田・徳川連合軍に大敗した。これにより、武田氏による三河侵攻は大きく後退することになった。
このことから、作手が武田軍の兵站基地であったのは、元亀元年(一五七〇)くらいから天正三年(一五七五)までの約五年間ということになる。
ただ、作手亀山城主であった奥平定勝の嫡男貞能は、信玄亡き後の天正元年(一五七三)に武田氏を離脱し、徳川氏のもとに走っている。
貞能は武田軍の情報を密かに家康に知らせていたことが発覚し、作手から脱出するしか道はなくなったのである。
貞能は武田軍の監視の中、まさに命を捨てる覚悟で作手から脱出したが、実父貞勝はそのまま作手に残ったという。
このとき、人質であった貞能の二男仙丸ほか一族の子女二人は磔にされたというから、貞能の覚悟のほどがしのばれる。
貞能は何があろうとも一貫して徳川につくことを決めていたものと思われる。

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