彦根山は佐和山以上の霊山

さらに、観音寺は古くから石田家と深いかかわりがあったことが分っている。
文明年間(一四六九~一四八七)の観音寺文書にはすでに三成の先祖と見られる「石田式部」の名が見られ、石田家は観音寺の有力な檀那であると考えられている。
つまり、石田家はかなり古くから観音寺、さらにはその背後にある修験信仰と関わりあいをもっていたことになる。
佐和山城のある佐和山に修験に関わる神社・仏閣が多く存在し、城と共存していたのもあるいはそれを保護する石田家と深い関係があったとも考えられる。
そのため、井伊氏や徳川家は、佐和山城を破壊するに当たって、三成、石田家を長く支えてきた修験信仰の拠点を根絶やしにし、さらには佐和山を守る宗教的バリアをも根こそぎ破壊する必要があった。
まさに、徳川家、井伊家にとっての佐和山の破城、三成の抹殺はそこまで徹底して行わなければならない作業であったのではなかろうか。
さらに、彦根城が築かれた彦根山は平安時代からの著名な霊山であり、その宗教的パワーは佐和山城をはるかにしのいでいた。
それゆえに、徳川家、井伊家は佐和山よりさらに霊力の高い聖なる彦根山に城を築き、さらなる神仏の守護を背景にするとともに、寺社をも動かすほどのより強大な力を示す必要があったのではなかろうか。

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