聖なる避難所・高尾山

北条氏照の支配下に住む民衆の避難所としては、高尾山も同じであった。
高尾山は標高599メートル、山頂に薬王院がある。
高尾山は武田信玄の領国甲斐との境に位置し、小仏峠からの敵の侵入を阻む位置にあることから、軍事上も重要な山であったものと思われる。
この薬王院には、上杉謙信からの制札、太田資正の制札がそれぞれ二通残っているが、その日付は永禄4年(1561)の2月である。
この永禄4年という年は、信州川中島で、武田・上杉両軍が死闘を繰り広げた年でもあるが、謙信は前年の永禄3年(1560)八月に大軍を率いて関東に攻め込んできている。
それは、謙信を頼ってきた関東管領上杉憲政の要請を受け、北条氏によって蹂躙されている上杉氏の失地回復のためであった。
謙信は関東に入ると、上野沼田城(群馬県沼田市)を攻め、兵数百人を討ち取り、厩橋(うまやばし)城(群馬県前橋市)を守る長野氏を下すなど破竹の勢いで進軍していった。
謙信はさらに長尾氏の守る白井城(群馬県渋川市)、惣社城(同前橋市)、由良氏の金山城(同太田市)、長野氏の箕輪城(同高崎市)、佐野氏の唐沢山城(栃木県佐野市)らを次々と服属させ、瞬く間に北条氏を追い込んでいった。
まさに疾風怒濤という表現がぴったりの謙信の勢いであった。
関東の武将たちはまるで軍神の再来かと目を丸くした。
これに対し、北条氏は武蔵河越城まで後退を余儀なくされ、やがて本拠小田原城に退いて態勢を立て直すしかなかった。
この謙信のもとには、武蔵岩付城の太田資正をはじめ上野金山城の由良成繁、上野箕輪城の長野業正、下野唐沢山城の佐野氏、上野白井城の長尾氏ら関東の有力武将たちが次々と傘下に加わり、北条攻めに従った。
いつしか、彼らの数は10万にも達し、関東では未だ見たことのない大軍に膨れ上がっていった。
そして、永禄4年(1561)2月、謙信は彼ら関東の主だった部将を率い10万という大軍でついに北条氏の本拠地小田原に入り、城下に放火し、町を焼き払って小田原城を囲み、北条氏に圧迫を加えながら10日間もの間、城を囲んでいる。
しかし、当時、東西3キロ、南北2キロの規模をもち、さらには城の周囲10数キロが堅固な土塁と深い堀で囲まれた巨城小田原城は謙信の猛攻にびくともしなかった。
それに加えて、北条軍も籠城一辺倒ではなく、城を出て攻城軍に果敢に夜襲をかけるなど意気盛んなところを見せていた。大軍を率いてのこれ以上の包囲は不可能と判断した謙信は、城の囲みを解いて鎌倉へと向かった。
謙信にすれば、北条氏を小田原まで追いつめ、さらには関東の諸将に自分の実力を見せつけたことで、初期の目的は達成されたとの認識をもっていたのであろう。
謙信は、武士の守護神鶴岡八幡宮において関東の武将たちの推挙を受けるという形で上杉氏の名跡を継承し、憲政の一字をもらい受け、名を政虎と改め、関東管領への就任の儀式を彼らの面前で執り行った。
まさに、それは、謙信の生涯の中で最も華やかな時であった。
高尾山薬王院に今も残る制札はまさにそんな中で謙信、そしてその先鋒として行動した太田資正から地元八王子の椚田谷、小仏谷の村人が大金を出して買い取ったものである。(中田正光『村人の城・戦国大名の城』)まさに、彼らの軍兵は北条攻めにともなって高尾山付近まで押し寄せてきていたのであろう。
制札とは、兵士が村人たちに危害を加えたり、略奪等をしないことを約束するための保証書であり、村人はそれを大金を出して敵の大将から買った。
また、敵の大将からみれば、制札は合戦における有効な資金源ともなった。
ただ、ここで興味深いことは、本来は、椚田谷、小仏谷の村になければならない制札が薬王院にあるという事実であろう。
これはまさに、村人が当時薬王院のある高尾山に避難していたことを意味している。
高尾山には、薬王院のたくさんの宿坊があり、臨時の小屋掛けをする場所もいくらでもあったことだろう。
だが、彼らにとって、緊急時の避難は近くの山であればどこでもよかったかというとそうではない。
そこでは、神の鎮座する聖なる山に避難し、神の守護を受けることに大きな意味があったのである。

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