糞尿の処理と水洗トイレ

籠城における城内での衛生面の悪さが引き起こした悲劇的な事件が能登(石川県)七尾城における籠城戦である。
それは天正四年(一五七六)のことであった。
七尾城は当時能登畠山氏の城であったが上杉謙信により包囲され、その周辺の領民はことごとく城に避難していた。
七尾城は標高三百メートルの山に築かれた城で、山全体に郭が設けられ、かなりの人数を収容できる大きな城であった。
しかし、それでもあまりにも多くの領民が一度に城に押し寄せたため、糞尿の処理が追いつかず、それがもとで衛生面が急激に悪化し、疫病が発生してしまったのである。
そして、その疫病はたちまち城内の人々に伝染していき、ついには城主畠山春王丸までもが疫病に倒れついに死んでしまったのであった。
畠山氏は城主である。城内では領民たちよりははるかに衛生面の良い場所に住み、水や食べ物にも注意が払われていたはずである。それでも疫病にかかってしまったということは、城内におけるこの疫病の蔓延がいかにすさまじかったかを表している。
城は結局、城主の死で謙信に内通する者が出、やがて落ちてしまう。
まさに城は糞尿のせいで落城したのである。
これは「たかが糞」なんてとてもばかにできる話ではない。
そこでは、籠城の際の大量の糞尿の処理がいかに大切かを物語っている。
それでは、普段城内では糞尿はどのように処理されていたかというと、それを物語る貴重な史料が残されている。
それは北条氏の城であった浜居場城(神奈川県足柄市)という標高六百メートル近い山城に出された掟である。
それによると「人馬の糞尿は毎日、城の外に出しなさい。いつも清潔にしておきなさい。遠矢を放って届く範囲の中に置いてはいけない。」としている。
つまり、そこでは、糞尿は城の外、放った矢が届かないくらいの遠くに捨てなさいと指示しているのである。
この浜居場城は高い山の上にあって、しかも兵が交代で番をする番城であった。その立地条件から、糞尿の処理は大変面倒な仕事であったことが想像できる。交代でやってきた兵の中にはそれをちゃんと行わない者もいたのであろう。
しかし、これは他の城も同様で、城というのはきちんと糞尿の処理をしてしっかりと衛生面の管理をしなければならない場所だったのである。
しかし、籠城という非常事態はこのサイクルを大きく狂わせることになる。そこでは、大量の人が一度に城に入ることにより、想像もできないほどの大量の糞尿が発生するのである。この処理を誤れば、たちまち疫病が発生し、命取りになるだけにそれぞれの城では相当な工夫がなされていたことであろう。
ちなみに、縄文時代の遺跡として有名な三内丸山遺跡(青森県)では、発掘により、谷間をトイレに利用した可能性が指摘されている。つまり、谷間を流れる沢や川の上にトイレを作り用を足していたのだ。
まさに、それは自然の水洗トイレであった。
そういえば、戦国の城が水辺や沢の近くの山に築かれることが多いのは、単にそれを堀にしたり、飲料水の確保だけではなく、糞尿の処理として川や沢の水を利用した可能性もあるのかもしれない。
まさにそこでは臭いものを「水に流して」いたのである。

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