城を重要視した信玄

「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵なり」
これは武田流軍学の書『甲陽軍鑑』にある信玄が語ったという有名な言葉である。つまり、「武田家にとっては人の材こそが最も重要でそれは城に匹敵する」という意味合いの含蓄ある言葉である。
まさに軍事も経世も組織というものはすべて一切が人で決まる、
つまり、人材の登用こそ、指導者が最も重視しなければならない重大事であるということであろう。
もちろんこれについては誰も異論はあるまい。
しかし、いつしかこの言葉が武田信玄は人材の登用には熱心だったが、城を重要視しなかったとか、信玄はあまり城を築かなかったとかいう間違った解釈をされるようになってきた。
その証拠に信玄は甲府にある自分の館、つまり躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館すらも堀が一重守るだけの簡単な造りであり、それは信玄が祖国甲斐(山梨県)を敵に踏ませたことがないという自信からきているというのである。
しかし、ようく考えてもらいたい。
信玄の時代は戦国時代真っ只中である。
信玄の故国甲斐、そしてその侵略地信濃(長野県)を取ってみても周囲は北条氏や上杉氏、織田氏という敵だらけである。
彼らは状況が変わるといつ信玄の領国に踏み込んでくるか分らない。そんな状況の中、戦国大名である武田氏が城を軽視して作らないなどということがあるはずはない。
事実、堀一重でしか守られていないとされる躑躅ヶ崎の館のすぐ背後は要害山城という大変規模の大きい堅固な山城で守られている。だからこそ、堀一重の館であっても有事には要害山城に入り、そこで敵と戦えばよかったのである。
要害山城の本丸はかなり広く、そこに大きな館が建つだけのスペースは十分にある。そこでは、長期間の籠城にも耐えうる構造になっているのである。事実、武田信玄自身もこの城で籠城中の母から生まれている。
また、武田氏は本国甲斐を出て信濃(長野県)、駿河(静岡県西部)遠江(とおとおみ)(静岡県東部と愛知県西部)にと侵攻していくが、その侵略地に武田流ともいうべき独自の構造をもった城を次々と築いている。
例えば、長野県松本市には深志城を築いているが、この城は現在の国宝松本城と同じ場所に築かれていた城で、武田氏の信濃(長野県)支配の中心拠点であった。しかし、松本城が深志城の上に築かれた関係で、武田時代の城は消滅してしまい、その構造はどのようなものであったかは不明である。
ただ、信玄は信濃守護に就任後、この城を守護の館にふさわしく改修しているところから、軍事一辺倒の城ではなく、文化的な香りをもった雅な館にした可能性はあろう。
かつて、将軍足利義輝は上杉謙信と信玄とを和解させるため、信玄に「川中島への侵略をやめよ。」との命を下したが、信玄は「私は信濃守護である。その私が信濃の川中島を支配することがなぜいけないのか。謙信こそ越後から信濃に兵を進めているではないか。」と堂々と反論した話は有名である。
同じく信玄は長野市松代町に川中島支配の拠点として海津城を築いているが、この城も現在の松代城と同じ場所に築かれていた関係で今は消滅している。
この城は有名な信玄の軍師山本勘助が築いたとされるが、初期の松代城の古図をみると、本丸のすべての入口の前に武田氏の特徴である「三日月堀」という半円形の堀が設けられていることから、松代城は海津城の構造をそのまま踏襲していた可能性が高い。
この城が完成したことにより、謙信は川中島から一歩後退することになった。
しかも、謙信が将軍足利義輝の命で京都に大軍を率いて行っている間に信玄はせっせと城の工事を進めており、城の完成を聞いた謙信は「おのれ!信玄!」と地団太踏んでくやしがったことだろう。
さらに信玄は長野県諏訪市にも高島城という城を築いている。
といっても、現在天守閣の建っている高島城ではない。
信玄の高島城はそこからもっと山寄りの諏訪湖を見下ろす高台にあった。だが、そこは今は住宅地になって城跡は消滅してしまっている。
諏訪は武田氏の信濃(長野県)攻略の一大拠点であり軍事基地の役目を担っていた。
信玄は「自分が死んだらその遺骸を諏訪湖に沈めよ」と言ったほど諏訪湖を愛していたとされるが、当時は城から眼下に信玄が愛した美しい諏訪湖の全景が見渡せたことであろう。
また、信玄は本国甲斐(山梨県)から遠く離れた静岡県静岡市、清水市、沼津市に江尻城、清水城、沼津城を築いている。これら三つの城跡も今はすべて市街地となっており、城跡は消滅してしまっている。
しかし、古図をみると、それらの城はすべて海辺にあり、城がそのまま港を兼ねて、堀は海とつながっていたようである。
武田氏は甲斐(山梨県)という海のないところから出発し、ここまで進出しとうとう念願の海を手に入れたのである。
生まれて初めて海を見た信玄の感動はいかばかりであったろう。
これらの城は武田水軍の拠点として、また、海の流通の拠点として武田氏の新たな構想のもとに築かれた城であった。
信玄は静岡県藤枝市にも城を築いている。それが田中城である。田中城は全国でも珍しい円形の城で二重の堀が円となって城を取り囲んでいた。ここでも、城の入口には三日月型の堀が設けられるなど武田氏の築城の特徴が表れている。城跡は現在は小学校の敷地になっているが、円形の堀の一部が残されている。
さらに信玄は愛知県にまで城を築いている。
愛知県の山あい南設楽郡作手村には今も古宮城、亀山城など四つの武田系の城跡が残っている。しかも、これらの四つの城は狭い範囲に築かれており、そこからこの作手村自体が武田軍の軍事基地であったことが分かる。
何のための軍事基地かといえば、浜松の徳川家康、岐阜の織田信長に対する武田の最前線の基地であろう。
「信長、家康、見ておれ!」そこからはそんな信玄の意気込みが伝わってくる。特に作手村から距離的に近い浜松城の徳川家康にとってはそれらの城は大きな脅威であったろう。
これらの城は武田氏が築いたほんの一部であり、信玄は侵略地に拠点となる城を次々と築き、敵に備えていたのである。
この事実は、武田信玄は城を築かなかったどころか戦国大名の中でも最も多く城を築いた武将の一人であったということを示している。
信玄には馬場信春や秋山信友などという築城の名人がいたようである。
その武田氏の城の特徴の一つはどれも共通して、縄張り、つまり構造が実に繊細で巧妙であるということである。
それと武田氏は従来からあった城の改修を多く手がけているが、どれも、城の弱点と思われるところのみを徹底的に補強はするものの、それ以外のところは一切手を加えていないという特徴が多く見られる。
そこには無駄を徹底的に省くという姿勢が貫かれている。つまり、大変頭脳的で合理的な考えの上に城を築いていることが分かる。
 こんなところから、筆者は信玄に対して繊細なイメージを描いている。

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