2020-09

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9月のNHK学園

本日は9月のNHK学園の歴史講座の日です。 今回は、「徳川家康の手紙」と題して、家康の書状を通して、受講生の皆様と共に長篠の戦い、本能寺の変、小牧長久手の戦い、上田城合戦、北条攻めなどを学んでいきたいと思います。 家康の書状には、我々が...
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真田家と六文銭19

『信濃史料叢書』によると、幸隆は上州で毎日悶々とした日々を送っていたとされており、『加沢記』によれば、幸隆は「村上氏は大名なので、容易に討つこともできない。ただ年月を送ることが無念である」と家臣たちに嘆いたとある。 このとき、幸隆は村上義...
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真田家と六文銭18

このとき、すでに当主棟綱の嫡男幸義は村上義清との戦に敗れ戦死していた。 このことから、海野氏の嫡流が滅亡してしまった可能性が考えられる。 そうでなくとも、海野氏嫡流は完全に没落してしまったのであろう。 このとき、真田氏は幸隆の時代を迎...
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真田家と六文銭17

だが、海野棟綱はこのまま引き下がっていたわけではない。 当時、海野家の家老であった深井棟広が高野山蓮華定院に宛て「上杉憲政殿へ本意の義頼み奉られ候間、急度還住致さるべき由」と書状に記していることから、海野棟綱は上州平井城の関東管領上杉憲政...
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真田家と六文銭16

かねてから小県地方を領地にしたいと目論んでいた村上氏にとってこれはまさに千載一遇のチャンスであったろう。 真田家の歴史を綴った『真武内伝』には、この事件の発端は海野氏の家老であった春原某という者が村上氏へ内応し、海野氏を裏切ったことから始...
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真田家と六文銭15

横尾氏・曲尾氏らの豪族の領地と真田氏の領地の距離を地図上で見てみると、直線距離にして三キロ弱、まさに至近距離といえる。 ここから、真田氏は神川を挟んで村上氏という強力な敵と至近に対峙することになってしまったことが分かる。 また、村上氏が...
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真田家と六文銭14

小県地方には今でもたくさんの城跡が残っているが、「千葉城」という名の城はどこにもない。 そのことから、この千葉城の所在は長く不明とされてきた。 しかし、『真田町誌』は『御符札之古書』でいう「千葉城」というのは「洗馬城」のことを指すのでは...
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真田家と六文銭13

史料には、海野氏を攻めたその人物の名は明記されてはいないが、それは村上氏、当時の当主政清と考えられている。 村上氏は信濃更級郡村上郷に起こった豪族で、清和源氏の流れを汲み、源義家の父頼義の弟頼清のとき村上氏を称したことから始まる信濃の名族...
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真田家と六文銭12

それにしても、真田氏はなぜ海野氏の嫡流にならなければならなかったのだろうか。 そして、そのことになぜそれほどまでこだわらなければならなかったのだろうか。 依然としてその疑問は残り続ける。 ただ、その後の歴史から分かることは、海野氏の嫡...
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真田家と六文銭11

そんな様々な技術をもつ一大集団でもあった彼ら修験者を味方につけることが軍事的にもどれほど重要であったかはいうまでもない。 その海野氏と修験者との関係を示すエピソードがある。 『源平盛衰記』によれば、木曾義仲は養和元年(1181)横田河原...
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