2020-05

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境目の緊張

慶長五年(一六〇〇)五月三日、家康は会津・下野国境那須伊王野城主伊王野資信に防御態勢を固めることを指示している。 そのころ、家康はまだ大坂城にあり、上杉討伐に出発したのは六月十六日であることから、家康はかなり早い時期に最前線となる地に臨戦...
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惣無事令の崩壊

上杉氏はすでに述べたように豊臣政権への公儀の軍事行動として動いていた。 しかし、会津における神指城の新規の構築は会津につながる街道防衛整備と時期を同じくしており、領内強化の一環と考えられる。 言葉を替えれば、それは私戦の準備に過ぎなかっ...
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家康の対上杉戦略

そこでは上杉、徳川両軍共に公儀の軍事行動であることを前面に打ち出し、共に正当性を主張している。 だが、両者はその合戦図をどのように描いていたのであろうか。 家康の軍団編成で注目すべきは、そこに福島正則、細川忠興、黒田長政らという武断派...
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共に正義を主張する家康と上杉

上杉氏が謀反を企てるということは、豊臣政権に反旗を翻すことであり、それは秀吉亡き後の主君秀頼に対する軍事行動を意味する。 家康はそれを明かに公儀に背くものだとし、秀頼の名代として、公儀の元で上杉征伐を行うとの大義名分を掲げたのであった。 ...
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上杉の謀反とは?

家康は慶長五年(一六〇〇)四月に伊奈昭綱らを景勝のもとに派遣し弁明のためその上洛を求めたが、景勝はこれに応じようとはしなかった。家康は上杉家の宰相として景勝の信頼厚い直江兼続に宛て、兼続と親交の深い豊光寺承兌に書状を持たせてその真意を探ろう...
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上杉景勝の帰国

慶長四年八月、上杉景勝は新たな領国会津の仕置きを完全にするため、家康の許可を得て、伏見を立って会津に帰っていった。 そこでは国内の城の整備配置や新たな家臣の獲得、道路や橋の整備などやらなければならない課題が山積していた。 景勝は伏見に滞...
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東海道を確保した家康

7月24日、家康は、家康は下野小山に到着すると、翌25日軍議を開き、今度の上方での異変は石田三成らが幼君秀頼を利用して起こしたもので、自らの秀頼に対する忠節は変わってはいない、さらに、今は奸臣三成らを討つことが豊臣家への御為であるとの大義名...
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上杉攻めの中止

7月21日、家康はそんな上方の動きが気になりながらも、江戸を出発し会津に向かった。 同日、三成は信州上田の真田昌幸に状況を知らせる第一報を送った。三成にとって、真田の存在がいかに重要であったかを示している。 翌22日、今や家康方の拠点と...
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手際の良すぎる毛利輝元の大坂入城

そんな情勢の中、18日、石田三成は内々に豊国社への参詣を行っている。(『時慶記』) ここに、三成が京都に来ていたことが分かる。 この日、大坂方は細川忠興の父幽斎の籠る丹後田辺城に軍勢を差し向けた。 19日、毛利輝元は大坂に到着し、直ち...
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豊臣家三奉行の豹変

6月25日、三奉行は東下する上杉討伐の軍勢に対して、兵糧、馬飼料の給付を証明する連署状を発した。 これは、上杉征伐が豊臣政権の意思であることを何よりも示している。 この上杉征伐に、諸大名が家康に従うのは当然のことであった。 彼らの出陣...
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