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月別アーカイブ: 2020年3月

東軍の新たな本陣は菩提山

いくら家康が駆け付けたとはいっても、徳川軍が大坂方の精鋭、石田三成、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘らが籠る大垣城を短時間で落とすのは難しい。 何より、西の南宮山から毛利秀元ら3万の大軍が救援に駆け付けた場合には挟撃される …

岡山は仮の本陣

慶長5年(1600)9月14日正午ごろ、ついに家康が本陣岡山に到着した。 すると席を暖める間もなく、諸将が家康のもとに集まって軍議を開いた。 そこで協議されたのは、翌日の開戦についてであった。 この時点では、三成ら大坂方 …

岡山の普請工事を行わなかった徳川軍

岡山をぐるりと取り囲む福島正則、池田輝政、黒田長政らの強力な布陣は三成方にとって大きな脅威であり、岡山に対してそうやすやすと手を出せる状況にはなかった。 しかし、三成の9月12日付の増田長盛宛の書状によれば、岡山の徳川勢 …

「要害もなき陣所」

『黒田家譜』に「要害もなき陣所に、八月二十二日より九月十四日まで、二十余日対陣し」とあり、岡山の陣所には要害性がないことが認識されていたことが分かる。 家康がこの岡山に到着するのは、関ケ原合戦の前日9月14日の正午ごろで …

要害性のない家康の本陣岡山

慶長5年(1600)8月23日、岐阜城が福島正則、池田輝政ら徳川方の軍勢によって陥落した。 徳川軍は、そこからさらに兵を進め、翌24日、大垣城の北西約4キロ、美濃赤坂にある標高53mの低山、岡山及びその周辺に陣を布いた。 …

福島正則軍を阻んだ宇喜多陣の土塁

土塁上には柵などが設けられていたと思われ、敵方に向かって大きな脅威を与えたことであろう。 この土塁は東西方向だけでなく、南北にも東山道を挟んで432メートルもの長さを有していた。(東限の土塁)。 ただ、南北の土塁は東山道 …

不破の関の土塁で守られていた宇喜多秀家の陣

関ケ原での合戦を想定した三成は不破の関北限の土塁460メートルとそこから南北に432メートル続く東限の土塁を宇喜多秀家の陣所の防衛線として利用したものと推定される。 豊臣家の大老備前中納言宇喜多秀家は秀吉の養子で、毛利輝 …

古代から残る不破の関の土塁を利用した宇喜多陣

関ケ原の宇喜多秀家陣跡には壮大で強固な防衛ラインが今も残っている。 それは、宇喜多陣の前面(南面)を防衛している土塁のラインである。 この土塁がすごいのは、基本的には、古代から存在していたものを利用していることである。 …

石田三成が用意した城塞

立地から見れば、玉の城山に築かれたこの城は関ヶ原合戦に関係した石田三成方の城郭遺構であるように思われるが、徳川軍との間で攻防戦が繰り広げられたような記録や言い伝えなどは一切ないことから、この城は当時も使われずに、そのまま …

玉の城山は一気に築かれた陣城

玉の城山は、かつて太平洋戦争時代、高射砲が運び込まれるにあたって、城内への道が広げられたり、破壊されたようである。 そのため、かつてはあったと思われる大手の虎口も破壊されてしまったようで、今ははっきりしない。 大手虎口と …

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