2020-02

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山頂に押し込められた大将毛利秀元

現地に行ってみると、もう一つ、不審な点が浮かび上がる。 それは南宮山山頂の入口には、虎口を構えた土塁や櫓を建てたと思われる櫓台、堀切など陣城を築いた跡が残っており、山頂に本陣が構えられたことは疑いがない。 しかし、山頂付近には大軍が布陣...
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聖域であった南宮山

毛利氏が布陣した南宮山は南宮大社の裏山にあるご神体ともいうべき山で宗教上聖なる場所であった。 南宮大社は美濃一宮として『延喜式』にも載っている古い神社であるが、かつて「仲山金山彦神社」と名乗っていたように、古代の鉄と関係が深い。 実際に...
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本多忠勝の不審

拙著『敗者から見た関ヶ原合戦』を参照していただきたいが、関ヶ原に今も残る遺構から判断すると、西軍は関ヶ原に先に布陣して家康ら東軍を迎え撃つ計画であったと思われる。当然、そのことは毛利軍にも伝えられていたことであろう。 つまり、主戦場が関ヶ...
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南宮山布陣の意味

戦略上から見ると、この山に布陣することは意味がないことはない。 ここ南宮大社の裏山に毛利が布陣したのは慶長五年(一六〇〇)九月七日のことである。 このころ、近くの大垣城には宇喜多秀家、小西行長、石田三成、島津義弘という西軍本隊がおり、東...
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関ケ原の見えない南宮山

三成が抱いた不審は実際に山に登ってみると心から納得できる。 「こんな不便できつい山を陣地に選んだ毛利の本音はいったいどこにあったのだろう。」 このとき、私にはその意図がさっぱり理解できなかった。 さらに、苦労して登った頂上でもう一つ驚...
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石田三成の不審

この南宮山をきついと思っているのは現代に生きる私だけではなかった。 実は、石田三成も豊臣家の奉行として当時大坂城にいた増田長盛に宛てた手紙の中で「毛利の陣所は垂井の上にある高山で、人馬の水もなく、人の上り下りもできないほどの山で味方も不審...
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美濃垂井 きつい登りの南宮山

岐阜県垂井は、関ケ原への入り口で、ここを押さえることは戦術上大変重要である。 そこに、中山道を見下ろすようにそびえているのが南宮山である。 南宮山と呼ばれる山は南宮大社の裏山になり、山下から見ると稜線はなだらかで険しそうな山には見えない...
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松平忠明により改修された作手亀山城

奥平氏の居城亀山城は、古宮城の南東約二・五キロのところにある。 関ヶ原合戦後の慶長七年(一六〇二)長篠城主奥平信昌(貞能の子)の子、松平忠明が再びここに入り改修したことから、城は一部近世化しているが、基本的な縄張りは武田氏時代のものを踏襲...
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作手村城塞群亀山城縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

以下の縄張り図は作手村に残る奥平氏の居城亀山城です。 かつては、奥平氏の居城であったものが武田氏によって手を加えられ、武田氏の城となっていましたが、長篠の戦い後、徳川方となって、再び作手に戻ってきた奥平氏は亀山城を再び改修したようです。 ...
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作手村城塞群 賽の神城

古宮城から街道を挟んだ西の比高一〇〇メートルほどの山上に築かれているのが賽神城である。 古宮城は作手における武田軍の本陣という位置付けをもっており、この城を眼下に見下ろす賽神城からは古宮城が丸見えになってしまうという弱点をかかえている。 ...
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